姉小路Who's Who 第2回

平野豆腐店 店主 平野良明氏

富永 幸克 氏

第二回の姉小路にんげんマップは、姉小路麩屋町かどの「平野豆腐店」さんのお話をお送りいたします。この平野さんのお豆腐、界隈の皆さんには、すっかりお馴染みのことと存じます。今回はそんないつものお豆腐の、こだわりや、出自、そして平野さんのお豆腐を求めにやってきた著名人たちのお話など、いささかお時間を頂戴して、たっぷりとお伝えしたいと思います。そして少しばかり読みづらいかもしれませんが、平野さんの京ことばそのままを文章になおしました。平野さんの口調といっしょに、お豆腐のやわらかな香りをお届けできればよいのですが…。

さて、お豆腐は、ひょっとして今夜の食卓にものぼるのでしょうか。そんな時は、このお話をちょっと思い出して、お召し上がりいただけたら幸いです。ではでは、さっそくお送りいたしましょう。

豆腐の生活文化

蒔絵師 富永 幸克

一、はじめに

『ひと』がつくる豆腐と『機械』がつくる車と

産経新聞「味のある風景」に掲載された平野豆腐店の絵

私、学校を出てから、十年間、ダイハツ工業で、車をつくる仕事をさせてもろて、それ以後二十五年豆腐作りをしております。車づくりと豆腐づくりというのは、つくるということは一緒なんですが、車はあくまでもオートメーションでつくっていくのに対して豆腐は手づくりになりますので、あくまでも人間が主体でつくることになります。だからまあ、機械が主体でつくる生産と人間がつくる生産と、たまたま前半と後半で経験させてもらいましたので、両方の欠点なり長所なりが、わかりやすく説明できればいいなと、おもてますけれども。

ダイハツ工業で学んだ生産技術というのは、ある平均値、車で言うたら、だいたい九割くらいの出来でモノを作ればよいということになります。従って、その平均値の範囲内に、全部の車を閉じ込めてしまうわけです。例えば一日の目標稼働率を九十五%として、百台つくるところを、九十六台つくれば、それで万々歳になるわけです。結局コンベアが人を動かし、コンベアによって人が仕事をする。だから人が人を管理するのではなくして、機械が人を管理する、そういう生産技術を学んできたわけです。つまり人間の感情が入らない生産技術になりますよね。それに対して豆腐づくりというのは、機械に左右されるのではなくして、自分のペースでモノをつくるわけです。そして平均値を狙うのではなく、自分のやりたいように、どんどん進んでいける。従って人間の持つ五感によって、品物を作り上げていくという楽しみが、豆腐作りの楽しみになってくるわけです。

うちの店のこと

私とこの店は、創業が祖父の時代で、明治の三十九年、祖父が二十四歳のときにこの地に移って、豆腐を作り始めました。

講演写真 熱弁の富永氏

この麩屋町通りというのは、二条麩屋町界隈にかなり良質の水があるもので、このあたりに麩屋さんやら湯葉屋さん、豆腐屋がたくさんできたらしいんです。そういうところから麩屋町通りと呼ばれるようになったという一説もあるようです。

祖父がこの地に移動する前、私とこの本家が、河原町二条で豆腐屋をしておりまして(今は佐川印刷に変わっていますけど)、初代が平野和平というて、丹波篠山のほうから出てきた人です。祖父がその河原町二条で生まれたのが明治十八年、三男です。ですから本家は明治十二、三年に豆腐屋を始めたと聞いています。その頃の河原町二条は、京都ホテル(現:京都ホテルオークラ)の場所に、長州屋敷が残っていました。ですから初代は、長州屋敷のまん前で仕事を始めたようです。

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二、豆腐の歴史

二軒茶屋で豆腐を食べているオランダ人 ─ 拾遺都名所図絵

江戸時代の豆腐

その長州屋敷で思い出されるのが、大村益次郎です。長州の優れた軍師として有名な人ですけれども、その大村益次郎が昔、村田像六と名乗っていた時、非常に好んだ食べ物が像六鍋だと言われています。これが実は湯豆腐なんです。京都から遠く離れた長州で、しかも下級武士の村田像六が簡単にお豆腐が手に入ったということは、その頃からかなりの店が、お豆腐屋として成り立っていたということになります。

さらに時代を遡りますと、江戸の中期、(一七八七年)には、「拾遺都名所図鑑」というのがありまして、今で言うところの京都の名所を拾い集めて紹介している書物です。ここに二軒茶屋(今でいう中村楼)でオランダ人が豆腐田楽を食べているという絵が記載されています。この時分は幕末と違って、江戸、京都、大阪では豆腐屋は手広く商売をしていたようですが、地方では地元の人が祭事のときに豆腐を作っていたようです。これよりさらに四十年前になりますと、二代目市川団十郎が書いた本に「老いの楽しみ」というのがありますが、「京のよきもの」として、水、水菜、女性、染物、みやす針、寺、豆腐、黒木、松茸と記載されていて、この頃には京都の豆腐というのは、かなり有名になっていたということになります。

戦国時代以前の豆腐

さらに遡ること戦国時代。この頃の資料は殆ど残っていないのですが、加賀藩の前田利家が京都に来た時に、南禅寺で湯豆腐を食べたと伝えられています。非常に好んで食べたということですが、書物に残っているわけではなく、そういう話があるということです。この頃はお寺さんで、精進料理で湯豆腐等が作られていて、お寺や武士の間では、豆腐というものがかなり行き渡っていた時代だと思います。もっと前の室町時代の一三九三年から一五七二年には、寺院の僧侶による精進料理が定着していて、貴族の間でもかなり豆腐が食べられていたと考えられます。ただ、この時代は関東や大阪ではまだ陰が薄く、京都ほど豆腐の利用はなかったようです。

さて、日本で書物に書かれている豆腐に関する一番古い資料は、平安時代の一一八三年寿永二年になります。奈良の春日大社の神主さんの日記で、「お供え物として、春近唐符 一種」というものです。今のように「豆腐」と書くのではなくて、「唐符」という字が当てられていたようです。平安時代にそういう書物があるということは、京都よりもむしろ奈良のほうが古かったと言えます。京都に伝わる前、奈良時代に平城京のときに遣唐使の僧侶が豆腐を伝えたのではないかと言われています。

日本伝来以前

では、中国ではどうでしょう。中国では豆腐という名前が文献に初めて出てくるのが宗の時代です。六一八年から九〇七年が宗の時代なんですが、清異録という本のなかに豆腐という言葉が記載されています。さらに時代を遡って、二世紀には、中国の後漢の『ダコウ帝』という武将の古墳の中に壁画が残っております。五コマの漫画形式の絵なんですが、その絵の中に豆腐の製造工程が描かれています。だからこの時代には、中国の身分の高い人たちは、既に豆腐を作って食べていたのではないかと考えられるわけです。かなり貴重なものだったようですね。

さらに時代を遡って、前漢の時代、紀元前二世紀に、淮南(わいなん)の劉安(りゅうあん)という人が豆腐を発明したという説があります。もう一つ、関西大学の教授が書かれた本の中に、豆腐に関する記述があります。これは民族の大移動についての研究で、一番よく使われている陶器や食べ物をたどることで民族の移動がわかる ─ そういう一環で豆腐の歴史を研究されているものです。その本の中に、四代目の皇帝の劉安が、八仙岳というところを通りかかった時に、老人が非常にすばやい動きをしているのを見て、いったい何を食べているのかと聞いたところ、豆腐の製造方法を説明したとあります。

ですから、紀元前二世紀以前に豆腐は作られていたのではないかと考えられるわけです。結局、このときに劉安は豆腐を食べ物ではなく、若くなる薬として話を聞いたのではないかと考えられます。

豆腐は身体に良い食べ物です

ですから豆腐の原点は、健康な食べ物であるということ、そして自然に作って、自然に食べてもらうのが人の身体にとって大事なことである。これを忘れて豆腐作りをすると、二千年の間、伝わってきた豆腐の意味がなくなってしまいますので、一番元になるものは何やったのかを大切にしたい思って、今、私は豆腐を作っているところです。

ながながと豆腐の歴史をお話ししてまいりましたが、ここで一番重要なことは、豆腐は絶対に身体に良いということで、それは歴史が物語っております。ですから是非豆腐を毎日食べてもらって、若返っていただきたいと、これを今日は覚えて帰っていただきたいと思います(笑)。

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三、「豆腐といえば京都」のわけ

では、京都が豆腐で有名になったのは何故でしょう。これはやはり京都には良い水があるということが大きかったと思います。ただ良い水ということだけなら、全国各地にあったはずです。しかしなぜ特に京都なのか、これには三つの要因が考えられます。

一つには豊富な地下水があるということと、二番目には平安時代に計画的に水路がつくられたまちであるということ。これは天皇が奈良から京都に移ったときに、天皇が自然を支配するという思想的な側面があったということです。それから三番目に、京都は日本の水の神が鎮座されているということが伝わっていったためと考えられます。

豊富で良質な地下水

まず豊富な地下水についてですが、京都の地下には琵琶湖に匹敵する水量の、しかも良質な地下水が眠っていると言われています。歴史的に言えば、鴨川が氾濫するたびに砂が京都の真ん中に流れてきますから、京都は扇状地になって、地下水が流れやすくなった。ですから盆地は盆地でも、他府県の盆地よりも急な傾斜になっている盆地と考えたほうがよいということです。そんな地形ですから、地下水が絶えるということがない。この地下水はどこまで続いているかというと大山崎です。そしてサントリーの大山崎工場で、地下水が地上に上ってくる。その一番良い場所に、サントリーさんも工場をつくったということなのでしょう。

模範となった都市計画

それから平安京の時に、計画的に水路をつくったという点。平城京で人口が増えすぎたものですから、桓武天皇は新しい都をつくり、計画的に水路を設けました。左京区に八本、右京区に四本、計十二本の水路です。左京では東から富小路川、東洞院川、烏丸川、室町川、出町川、西洞院川、東堀川、東大宮川、一方で右京では、西大宮川、西堀川、佐比川、西室町川になります。これらは用途によって違っていて、東堀川と西堀川は川幅が十二メートルとかなり広く、主に北の木材を運んできた川で、西洞院川と東洞院川は川幅が三メートルで、何に使われていたか記載がないのですが、あとの川は一、五メートルでおそらく下水として使われていたようです。このように平安京は水を利用する大胆な都市計画で、水に非常に神経をつかう都であったし、こうした都市計画は地方の模範となりました。

水の神が鎮座する都

また、さらに雨乞いの政は、天皇の役目でした。そういう天皇の権威を象徴するために、自由に水を扱うということは非常に重要でした。そのために鞍馬の貴船神社をつくり、雨乞いの儀式に使いました。この鞍馬が元になって全国に散らばり、二千の貴船神社がつくられました。ですから水の中に神様がおられるという思想が、京都から全国に伝わったのではないかと考えられます。そんなわけで、京都の豆腐が有名になったのは、良質な地下水が豊富で、水に関しての都市計画が優れている、もう一つは神が鎮座しておられる京都の水というイメージがあいまったためではないかと思うわけです。

豆腐は清らかな食べ物です

豆腐というのは、実は半分以上が水です。水は豆腐の味を決めるものではないけれども、絶対に必要なものである。その水が各地で思想的に「京都の水は優れている」という頭があるもんやから、その水でつくられている貴重な食べ物であると考えられた。各地方で祭事に神様の供え物として使われるというのは、豆腐そのものが清らかな水を含んだ食べ物であるためです。ですから二番目に言いたいのは、豆腐は清らかな水をつこて出来上がった食べ物やから、神様が授けられた貴重な食べ物だということです。昔は清らかな食べ物であったということが、今の世の中では、忘れられていると思います。

水というのは、絶対に必要なものなんですが、豆腐の味が決まるというのは、やはり職人の技なんです。だからといって水が悪かったらダメなんですよ。ですから水は良質な水というのは必要な条件であって、絶対的な条件ではないということです。そういう意味では、京都は魚が豊富ではないから、お寺さんや料理屋さんにしごかれて、豆腐の味が仕上がっていったということです。

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四、豆腐が出来上がるまで

映画「あかね空」の撮影に協力しました

ここからは、ちょっと自慢(笑)なんですけど。以前、よう、お客さんから「平野さんは南禅寺に店を出されてたんですか」と聞かれたことがあったんです。南禅寺さんとはご縁がなかったものですから、理由を聞くと、小説家の山本一力さんが書かれた本で「あかね空」というのがあるらしい。それは京都の豆腐屋の職人が江戸に出て成功する話なんですけど、その主人公は京都の南禅寺の豆腐屋で修行するという設定なんです。その修行する豆腐屋さんの名前が平野屋だと。これはまったく偶然なんですけど(笑)。私、それを聞いて、あわてて本を買いに行って、一日で読んでしまいました。

そうこうしているうちに「あかね空」を映画化するというので、仕事ぶりを見せて欲しいとのお申し出があったんです。そのときに主演される中谷美紀さんと内野聖陽さんが見に来はって、製造する過程を見てもらい、豆腐づくりについての毎日の気持ちやらを聞かれたのでお答えしました。それは役作りということで来られたわけですけど、二回目は監督さんやスタッフの方々も来られましたので、現在の豆腐の製造工程をお見せしながら、江戸時代におそらく京都でなされていたであろう製造工程の説明をさせてもらいました。それを今から再現する感じで、お話ししたいと思います。

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大豆を粉砕する

右の写真は粉砕機です。昔はこれが石臼でした。石臼の良いところは、長いこと擦っていても熱を持たないんです。というのは、豆を潰すと、潰したヌタが、石臼であると熱が伝わりにくいので、傷みにくいわけです。ですから石臼はモノを砕くには、熱を与えないからかなり優れた道具やったと言えます。今は粉砕機で豆を砕きますけど、高速やから熱をもつので水を入れながら砕いています。

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罐で炊く

左の写真は、罐です。今はガスで蒸気を出してヌタを炊いています。これが昔は和罐というて、おくどさんみたいになっていて、薪で火をおこすから、底からゆっくりとヌタを炊いていくわけです。戦後ちょっとするまで(私が小学校一年の間まで)は薪やったんです。ですから薪が使われている間は、紀元前二世紀の豆腐の作り方と進歩してないです。今は蒸気でかき混ぜて炊くんやけど、昔はゆっくりと炊いているもんやから、罐の場合は職人さんによって、炊き方によって、豆腐の味が変わってくるわけです。今はある程度機械化されていますから、温度が何度と数字で管理しますが、昔は全部勘でやっていたんです。炊き方で甘みが変わってくる。昔は今より難しかったと思います。

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『呉』を絞る

これは絞り機です。昔は桶があって、重石を乗せてしぼっていたわけです。『ヌタ』を炊くと『呉』という名前に変わります『呉』はおからと豆乳の混ざったものなんですが、それを袋に入れて、絞っていくわけです。この絞る工程、江戸時代は江戸と京都では絞り方が違いました。

にがりあわせ

その次、豆乳をにがりであわすのが、にがりあわせです。にがりあわせは、地方によって、かなり違うようです。にがりあわせの時に、一番大豆の良し悪しがわかります。豆腐の場合、大豆の良し悪しというのは、たんぱく質と糖分があるんやけど、糖分は豆腐を甘くする成分で、たんぱく質は豆腐の舌触りがよくなる。大豆のたんぱく質はにがりと相性がいいから、たんぱく質が多い大豆なら、なめらかな豆腐になりますけど、あっさりした豆腐になる。でも糖分の多い大豆だと、にがりと相性が悪いのでなめらかさがなくなるわけです。なくなるんやけど、できた豆腐は甘くなる。バランスとにがりの合わせ方によって、うまいこと大豆を見極めるわけです。ですから豆腐屋には、大豆の名前はいらんわけです。職人がそこで見極められたらいい。それが自分にマッチすれば、それが一番良い大豆であるというわけです。

今の豆腐の作り方と昔の作り方と、そういう話を監督さんとしながら江戸時代の豆腐屋はどんな店になるのか、わかる範囲でお話ししました。できあがった江戸の豆腐屋のセットを、監督さんが「平野さん、見に来てください」とおっしゃっていただけたので、東京から息子も呼んで(笑)、家内一同見学に寄せて頂きました。場所も長屋の豆腐屋さんということで、下は石を敷き詰めて、道具もうまいことはまっている感じでした。こちらも勉強になりましたし、記念にもなりましたし。ちょっとご報告までということで(笑)。

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五、北大路魯山人と白洲次郎

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緒形拳さんとの出会い

緒形拳さんは、NHKのハイビジョン番組で北大路魯山人さんの取材でおいでになりました。

魯山人さんは晩年は木屋町に住んでおられたんですが、晩年に好んだ三つの食べ物というのがありました。その三つ、一つ目が『鴨川のごりを炊いたもの』、二つ目が『いのしし鍋』、三つ目が『雪虎』でした。『雪虎』ゆうのは、木綿豆腐を厚揚げにして、魚を焼く網に挟んであぶったものですけど、焼きますと網の線が厚揚げに黒く出てくるんで、虎の模様に見えるんですが、それに大根おろしを添えて『雪虎』と名前をつけてたわけです。

その魯山人さんが雑誌に書いた原稿に、「丸平商店で豆腐を買って食べた」とあるんです。うちとこは、保健所に届けている名前は、丸平商店なんです。本家の河原町二条とうちとこの二軒が、丸平商店。で、緒形さんが取材にこられた時は、本家はもうなくなっていますので、私とこの豆腐を取り上げてもらったようです。その取材で来られたわけですが、緒形さんは昔「豆腐屋の四季」というテレビドラマで豆腐屋の主人の役で出ておられて、豆腐のことは詳しかったですねえ。そのときに写真を撮ったのですが、今になってみると貴重なものになりました。

白洲次郎と豆腐

初代の豆腐の味が、魯山人が食した豆腐であるとすれば、二代目の良平の豆腐は、白洲次郎に好まれた豆腐でした。

白洲次郎というのは、芦屋に生まれた人で、故吉田茂首相の秘書官として、サンフランシスコ講和条約やら日本国憲法に携わり、「従順ならざる唯一の日本人」として有名な人でした。その娘さんが「次郎と正子」という本を書いているのですが、その中に「父は食べ物の好き嫌いが色々とありました。嫌いなもののわけを尋ねると『子どもの時、栄養があるから食べろと、あまりに言われたので嫌いになった』というのです。豆腐などは、人様にはお聞かせできないような言葉で食べない理由を言っておりました。でも不思議なことに京都の平野屋さんのお豆腐だけは食べておりました。母に言わせると父は食べ物について『観念的だから』だそうです。」という記述がありました。

この本もお客さんから言われて、またあわてて買いに行きました(笑)。白洲次郎という人は、ケンブリッジ大学に留学して戻ってきた人物なんですが、当時の日本人からみると特異な人物であり、食べ物に対しても観念的であったようですが、そういう人に対して親父の豆腐は合格点をいただいたのではないか。

そんなこんなで、初代、二代目から受け継がれてきた三代目が作っている豆腐です。きれいな水を使って、清らかな、循環のきく食べ物です、ということで、今後ともよろしくお願いいたします(笑)。

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六、おまけ

このあと、それは活発な質疑応答が繰り広げられたのですが、とてもとても長くなってしまいますので、ここでは一つだけ、印象深いやりとりをお届けしたいと思います。

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○質問

いつも平野さんのお豆腐にはお世話になっております。私の父が九十六歳で長寿でおりますのも、平野さんのお豆腐のお陰と、今改めて実感しております。今日のお話を伺って、毎日お豆腐を切らしたことのない父が「今日の豆腐はおいしいけど、昨日のはちょっと…」と言うときがあって、ああ、やっぱりお豆腐は生き物なんやなあと感じました。

○答え

その通りなんです。やっぱり大豆いうのは、生き物なんです。結局同じルートでやってくるし、同じような種類なんやけど、年度によって成分が変わってくるから、それによってにがりの濃さとかをわけていかんなん。また採れる時期が一年に一回なので、だんだんと大豆の力がなくなってくるんです。それによって、春に作る場合と、秋に作る場合と。俳句の中でも、秋の豆腐は「新豆腐」という季語になるんです。

「やっこ」は夏をあらわす季語ですが、春はないんです。というのは、十一月に大豆がとれたら、春には弱い大豆になるので、あまり話題にはのぼらない。だんだん脂肪分がなくなっていくわけですが、それによってにがりを調整していかなあかん。そういう調整が、よく召し上がっていただいているお客さんには、その差がわかっておられるのだと思います。

結局、生き物を相手にしている食べ物なんです。その辺を硬いの、柔らかいの、ありますが、ずっと味おうて、召し上がっていただきたいなと思います。

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