姉小路Who's Who 第4回

京菓子司 亀末店主 吉田 孝洋 氏

今回の姉小路にんげんマップにご登場いただくのは、京菓子司 亀末の店主、吉田孝洋さんです。二度目ではありましたが、甘い話につられて、瞬く間に時が過ぎました。お味のほうも、結構でございました。

京菓子のお話

京菓子司 亀末店主 吉田 孝洋

はじめに

写真 水まわしの実演

今日は、姉小路界隈の谷口さんから、「京菓子についてお話しを」と言われました。

平成七年にも、一時間半くらいですが、お菓子について話しいたしました。そのときにお聞きになった方も何人か見えられるようですので、重複する部分は出るかと思いますが、お話ししたと思います。

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お菓子の種類

お菓子は中国菓子や西洋菓子、日本菓子があります。日本のお菓子の中には、江戸菓子、京菓子と大きく分けることができます。

京菓子とは、有職故実にのっとった儀式や茶道に用いるお菓子を言います。

お砂糖、もち米、メリケン粉、あずき、片栗粉でつくったものを生菓子、蒸し菓子、中菓子という種類にわけています。

京菓子の発展

京菓子の歴史についてお話しますと時間がかかりますので、京菓子が今日まで発展している理由についてお話したいと思います。

桃山時代・奈良時代のお菓子を、雑菓子と言います。京都では、皇室とか公家とか神社仏閣などのおかげで、お菓子が工夫されて作られてきました。特に、桃山時代以降の白砂糖が伝わってきて、お菓子づくりが急激に発達してきました。

茶道の発達によって、京菓子は江戸時代に入って最も上品な風格の高いお菓子ということで、他地域との差がはっきり出てきました。

幕府は、白砂糖が大変貴重なものであるということで、規制しました。食べるお菓子が、一般庶民の方の口になかなか入らないわけです。

ところが、京都では、皇室や上層階級が召し上がるお菓子を各店が作るために、特別なお菓子を作るお店を選定して、砂糖を配っていました。今日はちょっと持ってきませんでしたが、砂糖を許可する印として元株鑑札というものがあり、京都で二百三十軒くらいがお菓子づくりを許されていたといいます。

私のところの家の代表的なお菓子は、四畳半といわれているお菓子です。後で食べてもらえば良いですが、このような中に入っているということを見てください。

写真
京菓子司「亀末」店主 吉田さんの話に聞き入る

京菓子づくりの心

私たちの時代は色々な意味で時間的な意味、経済的な意味、心のゆとりということで、色々なことに気遣いが必要な時代となりました。父の仕事を実際に見たのは三年半程度ですが、お客様から受けた注文のお菓子に対し、命をかけて作るという意気込みで仕事をしていました。そういう意味では、「私たちはもう少ししっかりしないと」ということですが、なかなかそこまではいきません。我々のお菓子は、お客様の求めるお菓子を作るという仕事ですが、お客様がどのように使いたいのか、何の記念として使いたいのかというように、目的にあったお菓子をお客様に提供しなくてはならないと思っています。

これは理想論ですが、中に入っているお菓子の色や並べ方、お菓子の名など、お客様が注文にこられたときに、「このようにしたらどうですか?」というような一種のひらめきがないと、なかなかお客様の注文に対応できません。

ひらめいたお菓子の名も、和歌や俳句などにちなんだものに自然に結びついていくことが多く『お客様の探究心をいかに満足させることができるか』が、京菓子を創る者の宿命であると思っています。

京都の干菓子の銘店

私の店は、二百年まえに醍醐の方から祖先が来まして、たまたま時代的にあったと思いますが、干菓子を京都で作るということで大きくなったと聞きます。

干菓子は外見・色が大変良いということで、現代感にも非常にマッチしたものでして、大変個性的で日持ちがするのが特徴です。日持ちするものがなぜ良いかについては、後で歴史的なこととあわせてお話したいと思いますが、干菓子は日本最古のお菓子でして、唐菓子と書いて「からくだもの」と呼んでいます。足利時代に茶道とお菓子が結びついて ─ 「わび」「さび」と結びついて、できたものです。皆さん、お聞きになったことがあると思いますが、落雁、白雪糕などのお菓子は、砂糖に寒梅粉という、いわゆるもち米を混ぜ合わせて練って、できたものを型に干して出来たものです。

写真

皆さんには後にお見せしますが、このような木型があります。これに入れて打ち出したものが、落雁、白雪糕の元となります。松風というお菓子は京都に来られた方はご存知だと思いますが、小麦粉に麦芽糖と砂糖と白味噌を入れてそれを鉄板で焼いたものです。お店によって少しずつ、材料の量はちがい、それは秘密となっています。私の店では普段、松風は作りませんが、作るときは特別なやり方で松風をつくります。このお菓子はある意味とてもポピュラーなお菓子です。

日本の各地での代表的な細工の干菓子がありますが、秋田なら諸越、松江なら山川、金沢の長生殿など、各地方の有名な干菓子となっています。

京都の干菓子が発達した理由は、幕末に諸藩の重鎮が京都に来ます。江戸時代は少なかったのですが、醍醐からここへ店を移した時には、先代が新しいお菓子として干菓子を考案して作ったらしいのです。それがたまたま徳川幕府の将軍に気に入られて、二条城や京都御所に持って行くようにと言われたということです。

道喜の粽もちまきだけを御所に入れていましたし、虎屋さんは生菓子だけを、自分のところは干菓子だけをというようになっており、特色のあるお店がお菓子を持っていったそうです。この当時、九十八件ほどの干菓子のお菓子屋があったと言います。京都というところは、風土と朝廷のちょうど真ん中で王朝文化が栄えたところで、庶民の水準が高かったのです。購買力が高かったし、お菓子の材料がまわりに恵まれていたということです。丹波にはあずきがあります。米も良いものがありましたし、水も豊富にありました。それらがマッチして、目で見た時の色や形の優美さ、食べたときの口ざわりの良さなどから、五感で味わえるようだと言われています。

和菓子の材料と作り方

和菓子の種類として、生菓子と半生菓子 ─ いわゆる蒸し菓子と干菓子があると言いましたが、一応、生菓子の中にはいわゆるおせんべい、あんころもちや大福、うぐいすもち、草もちなどが含まれます。おはぎ、ボタンもち等も含まれますし、新粉を練りこんだもの、柏餅などもそうです。

皆さんご存知かもしれませんが、柏餅。これは大体、柏餅の中にはあんこと白味噌の入ったものがありますが、あんこが入ったものは葉っぱの表が出ているもの、裏を見せているものが白味噌の入ったものと分けているようです。

蒸し菓子はいわゆる蒸し物で、おまんじゅうとか蒸し羊羹とかですが、鎌倉、室町時代に禅が入ってきたときに点心というものに変化して、蒸し菓子ができたと言われています。お饅頭類は、小麦粉を膨らませて砂糖とまぜ、蒸篭で蒸して作ります。

焼き物としては、どら焼きや金つばがあります。

練り物は、関西と東京とはものによって呼び方が違うものがありますが、原材料は一緒です。

半生菓子は、生菓子よりは日持ちするけど、干菓子よりは日持ちしないというものです。「最中は三日でも四日でももちますね」と仰るお客様がいらっしゃいますが、「うちは生菓子ですよ」と応対することがあります。最中の皮、これはおせんべいですが、昔、最中の皮を楽しんで食べたものです。昔は手広くお店をやっていたものですから、色々なものを作るとあまりの餡子が出てくるわけです。それを集めてあずきにして中の餡として使っていたのです。最中は、ふつうのお菓子より安くて、おやつとして食べるものでした。今は最中といっても普通の餡子を使っていますから、安くおいしく食べようと思ったら、最中が一番です。生活の知恵ですね。

また、半生菓子には州浜というものがあります。大豆と青豆を炒って、引いて砂糖と水あめをまぜて作るものです。机の上に、州浜専門の植村さんのお菓子を用意しました。後で、お茶と一緒に召し上がってください。六角に入れているのは、和三盆です。一粒ずつはお召し上がりいただけるかと思います。

桃山という焼き菓子をご存知かと思いますが、これは日持ちが一週間くらいするお菓子で、白餡と黄餡と寒梅粉と水あめを練って、型に入れて干したものを言います。

干菓子が加わって、くちもの、干ものと言っています。

一つひとつ手作りの干菓子の木型

非常に細かく掘ったもので、稲穂に打ち出した形があります。籾殻まで掘っており、現在ではこのような型はできません。昔はこのような型は私の店ともう一つの店で型屋さんが一人ついていました。そういうところに無理を言って作ってもらっていました。ただし、一週間や十日でできるものではありませんから、早くから言って型を作ってもらっていました。今は、京都で二軒、型屋が残っているだけです。

おおざっぱなところは電動で型を掘ったりしますが、こういう型は使い込んでいくと角が取れ、型が柔和になってお菓子が打ち出せるようになります。

現実的には現在ではほとんど使いませんが、般若の面のようなものもあります。

▼型の木は何ですか?
型の木は昔から楓の木を最低五年〜十年寝かしてから作っていました。堅いものですが、たわしなどでこすっては微妙な傷がいきます。
▼この型は今でも使っているのですか?
注文があれば今でも使っています。昔は型というのは一回限りの注文で作ったものです。ですからゆとりをもって早いうちから注文を聞いていました。一回限りで、その後は風呂を焚く薪として使ったと聞きます。型はおめでたいものばかりですね。現在でも五百〜六百程度の型は残っていますけど、よく使うものだけ出して、あとは倉庫にしまってあります。
▼生菓子はどのようになっているのですか?
生菓子の名前はありますが、形は型ではとれないので、私どもの菓子の型を型屋にまねてもらい、京都のデザインということで作っていると思います。

一番難しいのは色で、お菓子づくりでは蛍光灯を奨励されていて、白熱灯の下と蛍光灯の光の元では色合いが違います。

すばらしい京都菓子のデザイン力

私がここに持ってきたお菓子ですが、都名所「四方のながめ 古都」というお菓子です。なぜこれをもってきたかというと、京都のお菓子のデザイン力はすごいことを知ってもらいたかったからです。これは干菓子だけではなく、生菓子もそうで、地方ではいかに実物に近いかということを表したものが多いと思いますが、京都は、花の花弁ひとつを表していたりします。

なぜそのようになったかと言いますと、京都のお菓子は公家や皇室関係の遊びの道具の一つであったわけです。一般庶民に対して、「あなたたちはこういうものはわからないでしょう」というような感じですね。お菓子というのは、簡単に見て分かってしまったら面白くないというものだったようです。

微妙にわかりにくいものもあります。7種類くらいありますが、上下だけは言いますので、皆さん想像してみてください。型は京都の寺や自然の風景とかです。

写真 写真 お菓子の型(左)と型当ての様子(右)

正解は、宇治橋、三千院の雪見灯籠、清水寺、京都の大原女、金閣寺、神護寺の下から橋を渡ったところ、筏ながしと船頭です。

なかなか簡単にはわからないことがわかったと思います。つたない話だったと思いますが、皆様ありがとうございました。

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